上流階級の客しか足を運ぶことがなかった店にあふれる日本人客。しかも、ごくごく普通の女性たちが争うようにヴィトンのバッグを買っていく。この光景に驚いたヴィトン本社は、日本市場の現状と可能性について、ニューヨークの大手会計事務所に調査を依頼した。この調査を担当したのが、当時、同会計事務所の東京事務所のパートナーであり、現在のルイ・ヴィトンジャパンの社長、およびLVJグループの社長をつとめる秦郷次郎である。調査を終えて秦が出した結論は、「製造から販売、アフターケアまでをすべて直営で管理し、適正な価格で商品を供給すべし」というものだった。ヴィトンは一九六九年に日本に進出している。しかし、この時はイソポーター(ファヴシEソの専門商社)であるサソーフレールを通して、現地の三井物産を仲介に商品が日本に送られるという流通経路だった。間に中間業者が入るため、マージンの上乗せで国内価格は高く設定されていたが、並行輸入業者が内外価格差に目をつける。利ザヤを稼ぐために、本国でヴィトン製品を買いあさり、高い値段で販売しはじめたのである。そのため、店によって値段が違う上に、本国と日本での販売価格差は三〜四倍にも達していた。だから、パリヘ旅行した日本人は、「安い」「買わなくちゃ」とヴィトンの店に群がった。ここにメスを入れ、商社や輸入業者を排除し、すべてをヴィトンのコントロール下に置くべきだ、というのが秦の提案だった。中間業者をカットすれば、流通コストを抑え、価格も下げられる。適正な価格を実現すれば、並行輸入業者のうまみも減るという計算だ。折しも、七七年にヴィトン本社はファミリービジネスから脱し、所有と経営を分離して、持ち株会社ルイ・ヴィトンS.A.を設立していた。秦の提案を受け入れたルイ・ヴィトンS.A.は、七八年に東京支社を立ち上げ、八一年にはルイ・ヴィトンジャパンを設立した。提案するほうも大胆なら、それを受け入れたヴィトン側も豪胆といえる。というのも、当時の日本の状況下では、秦の提案はいろいろな意味で「常識破り」だったからだ。七〇年代の日本におけるブランドビジネスは、商社などの総代理店を通した輸入卸方式か、ライセンス契約による販売かに二分されていた。極東の国・日本は遠い。流通事情もよくわからない。だったら、市場をよく知る商社や業者に任せたほうが確実であり、ライセンス契約を交わしてラインナップを拡大したほうが手っ取り早く売上を上げられるI・。こう考えるブランドが多かったし、また商社やイソポーターもそういってブランド側を口説いていた。だが、ルイ・ヴィトンジャパンはライセンス契約には見向きもせず、中間業者を一切排して、すべてを直営に切り替えた。八三年に雑誌のインタビューで秦は次のように話している。流通形態としては、理想的なものですが、業界を知らない机上の空論だ、すぐ破綻すると言われました。自分としては、ひとがやっていることを真似ては進歩も発展もないと思い、強くこの方法をルイ・ヴィトン本社にリコメントした。(中略)人は私のやり方を、反常識商法と言うけれど、これが経営における正攻法であり常識商法だと信じています。(中央公論社『月刊WILL』一九八三年一月号)日本でブランドビジネスに携わる人材は、百貨店の特選売場か商社の出身の人間、と相場が決まっていた時代である(今もさして変わらないが)。会計事務所のコンサルティング担当者の秦は、いってみれば門外漢だ。だからこそ、業界の慣習や常識にとらわれない発想が可能だったのだろう。