研究開発の本質

2011.07.14

p型Pzもなかなかできなかった。p型化するために、不純物の亜鉛(h)を添加しても、抵抗が大きくなるだけであった。抵抗が大きくなるということはかがらと正確に置き換わっていないことのあらわれである。しかし1987年に、電子顕微鏡で観察していた天野は、電子線を当てるとかがらと置換してp型Pzに変化することを、偶然にも発見する。さらに赤崎と天野は1989年の初め、代わりにマグネシウム電子線照射によって10倍も強く光ることを見つける。単結晶薄膜は、1987年から研究に着手していたNTTの松岡隆志によって、それまでの結品成長条件としては窒素源として非常識なほどの大量のアンモニアガスを使用して、1989年に成功する。OQZの研究では先行していた松岡は、しかし1992年に会社からOQZの研究の中止を命ぜられることになる。越えられないと思っていた壁が誰かによって越えられたことを知ると、具体的なことは知らなくても、それまで何をやってもできなかった壁を、なぜか越えることができるようになる。日亜化学で中村修二が0芝青色発光ダイオードの結晶成長を始めたのは。青色発光ダイオードの三つの壁を突破する実験データが出そろった1989年のことである。中村は、ほかの研究者によるそれまでの01系発光ダイオードの基礎的知見を最大限利用し、一か八かの賭に打って出た。その背景には、日亜化学の創業者であり会長であった小川信雄の育て上げた目亜化学の企業風土がある。テーマを始める前に米国留学という機会を与え、帰国後は広いスペースを与え、共同研究者を参加させ、5億円という破格の実験費を与えた。日亜化学も一技術者の一か八かの賭を会社の遊びとして認めたのである。「おもしろいからやってみよう」という「非論理的」な経営判断は、大企業の組織ではなかなかできないものである。しかし、日亜化学のその判断は未知のものを明らかにしていくという、研究開発の本質をついている。中村は、最初に赤崎らが用いたとバッファ層を用い、つぎにバッファ層にして、単結晶薄膜に成功する。1990年9月のことである。これによってほかの研究者よりも一歩先んじたことになる。